心配すんニャ。大丈夫ニャ。菩薩先輩のロックな現代語訳『般若心経』について

▼シェアシタ貴方ヘ福ガ訪レマスヨウニ▼

期間工になる前、私は寺男でした。
というわけで、般若心経の話をします。

期間工からはちょっとだけ離れるが、今日はお寺のお話をします。

お寺っていうか、現世の苦しみから解放される究極の経典『般若心経(はんにゃしんぎょう)』のお話をします。


期間工になる前、ある寺に住みこみで寺男(てらおとこ)をやっていた時期があった。

寺で働く男だから寺男。遊び心ゼロのネーミングセンスだ。

さすがに味気ないので、英語に訳してみる。
“Temple man”
突然かっこいい。Theとかつけたくなる。
“The Temple men”
複数形にしてみた。無駄にバンドっぽくなった。

寺男、いやThe Temple manとは、お寺界のADみたいなものだ。
掃除をしたり、卒塔婆を並べたり、座布団を敷いたりと、なかなかに忙しい職業だ。

ちなみに、どういういきさつでおれが寺男になったのかについては、ここで語るつもりはない。

ドラマ性がゼロだからだ。
語ったところで、みんなガッカリした顔と小さい舌打ちをするのだ。
経験上、そうなることは知っているのだ。

人には、謎のままにしていたほうがいいこともある。

“A secret makes a woman woman.”
(秘密は女を女にする♥)

そういうことだ。

一応言っておくと、今のはただ名言を使いたくなっただけだ。
おれは女じゃない。
丸メガネのおっさんだ。

ちなみに上の言葉は、寺に置いてあった『名探偵コナン』で覚えた。


お寺にいたというと「修行してたの?」「坊主頭だったの?」と必ず聞かれるが、どちらも答えはNOだ。
一秒も修行してないし、当時はカート・コバーンのような金髪だった。

ニルバーナのカートコバーン

【カート・コバーン】
伝説のロックバンドNIRVANAのギターボーカル
NIRVANAは仏教用語で”涅槃”(悟りの境地)を意味する。
写真のギターを卒塔婆に持ち替えれば、そのまま当時のおれになる。

寺男、いやThe Temple manの朝は早い。
4時起床だ。
本堂の真下の部屋に住みながら、常に煩悩と雑念の虜のおれは、毎日寝不足だった。
寺では22時就寝でも、かなりの夜更かしとなる。

で、寝ぐせ・半睡のまま、境内の掃除開始。

おれのいた寺は、規模でいえば中の上くらいの、そこそこにでかい寺である。
なんと『出没!アド街ック天国』にも地元の名物寺として出没したことがある。

広大な敷地内には本堂だけでなく、3軒の住み家や集会所が建ちならび、さらにはカリスマ茶人・千利休の利休庵を模したような茶室までいくつか設けられていた。

千利休

人気マンガ「へうげもの」の千利休はめちゃくちゃ格好いい。
おれが黒い服をよく着るのはこのマンガの千利休に影響されてだ。
ガチな話、当時はライフスタイル、ファッション共に時代の最先端をいくカリスマ。
現代でいうと安室ちゃん。いや違うな佐藤可士和か。とにかく並のハゲじゃない。

それゆえにこの寺での掃除は、茶の湯的な美的感覚を求められる。
有名な“わびさび”の概念はここで学んだ。
落ち葉をきれいに掃ききるのではなく、適度にちらすのがポイントだ。

で、その掃除後にマストで唱えさせられていたのが、はいきました、般若心経』だった。

般若心経こと『般若波羅蜜多心経』とは何ニャ?
あと言ってる意味を教えてくれ。

般若心経とは、約300文字の中で大乗仏教の心髄が説かれているとされる、数ある経典の中でも一番メジャーなアンセム的お経だ。
正式な名前は『般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみつたしんぎょう)』という。

ちなみに“はんにゃ”と女の子が言うと、とても可愛いのでおススメだ。

ニャがポイントなんだニャ。

まあ、おれが言ったところで特にプラスはない。
おれは丸メガネのおっさんだ。


最初は覚える気もなく、覚えられる気もしなかったが、人間の学習能力はすごいもので、毎日唱えているうちに、何も考えなくても勝手に口が動くようになった。

お経独特のグルーヴ感は、唱えてみると意外とおもしろい。
木魚の4つ打ちビートでなにげにノれる。

特にラストの「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー ボージソワカー)」の部分がサビっぽくて超かっこよかったので、必要以上に熱をこめて唱えた。
坊さんが複数人で唱える時も、この個所は大合唱になる。

エアロスミス

ギャーテーギャーテェェイエイ!! イエイ!!

で、唱えられるようになると、今度は意味を知りたくなる。

で、住職に般若心経の意味を聞いてみたのだが「知らねえよ」と言われたので、自分で調べてみた。


まずこの経典は、物語形式というかストーリー調で幕を開ける。
ざっくり言うと、観自在菩薩舎利子って弟子に悟りを語っていく感じなのだ。

でね、観自在菩薩の言うことが本当にワケわかんねえのよ。
あれよあれよと置いてけぼりを食らいます。

これ、舎利子はなにを思いながら聞いていたんだろうって、感情移入しちゃうくらいワケわかんねえのよ。
舎利子は絶対、途中で違うこと考えてますよ。スマホ見てますよ。白目むいて眠りかけてますよ。

まあでもそれも無理ないよなって思っちゃうレベルの難解さなのよ。

で、こんな難しい観念的な経典を本当にみんな理解して唱えているのだろうか、って疑問に思って、寺にくる檀家さんたちに意味を聞きまくったんだけど、
「さあ」「さあ」「さあ」って福原愛のサーブみたいな声が返ってくるだけなんですよ。

福原愛のさあ!

さぁ!!

やっぱり、みんなわかっていないのだ。

そしてみんながわかっていないことに安心感を覚えて、おれもいつしか般若心経の意味を求めることをやめたのだ。


そうこうしているうちに時は過ぎていった――。


で、何年か前にやたらとロックな語調で訳した、般若心経の現代語訳が話題になったことがあった。

当時は斜に構えて気にもとめなかったのだが、なぜか先ほど数年の時を経て、いきなり気になってきてしまったのだ。
話題になったってことは、要するに万人が理解できているってことだ。

これはチャンスだ。
あの日諦めた般若心経の意味を知るチャンスだ。
そしておれは今さらながら、この訳を初めてしっかりと読んだ。

では初耳の人のために、般若心経のロックな現代語訳がどんなもんかって引用してみます。

超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?

誰でも幸せに生きる方法のヒントだ。
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

この世は空しいモンだ。
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。
この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。
見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。
先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。
菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな。
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな。
それができりゃ涅槃はどこにだってある。生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。

心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。
意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。
嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。

今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。
気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。
いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?

『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』心配すんな。大丈夫だ。

おお。
なんか“兄貴”って感じ。
もしくは“先輩”って感じ。

最後の「心配すんな。大丈夫だ。」が、いきなり優しくてずるいよ。

正直、なにが言いたいのか今いちよくわからないままだし、「長いよ結論早よ」って途中で言いたくはなるけれども、これに心を動かされた人が多いのも頷ける。
それだけの強いパワーは感じる。


ただ、ただね、あえて聞くけど、先輩のことどうよ?

空気を読まずに本音で言うと、おれはちょっときついわ。
繰り返し読んでいるうちに、なんか馴染めないというか、苦手というか、相いれないものを強く感じてきたのだ。

もっとはっきり言えば、どうしても先輩が好きになれないのだ。

なんかヒップホップやってて、こじれてちょっと痛い感じになった中年男子みたいなところを感じちゃうんですよね。

で、こじれヒップホッパーの先輩が、やる気茶屋とか鳥貴族でおれに話しかけてくるシチュエーションが浮かんでしまうのよ。

黄色いバンダナを巻いた上にキャップをかぶって、NBAのレイカーズの紫色のユニフォームを着て、太い金色のネックレスをして、ウーロンハイ飲みながら語りかけてくんのよ。
からあげ食いてえなって思いながら、先輩の演説を聞いてる気分になるのよ。

“♪俺は東京生まれHIP HOP育ち 悪そうな奴は大体友達”

先輩は都内A区のアパートに3人暮らしなのよ。
嫁はプリン頭で、息子は襟足だけやけに長いジャンボ尾崎カットなのよ。

“♪裏の道歩き 見てきたこの街”

先輩ん家は一年中、こたつが出しっぱなしなのよ。
干からびたカールが落ちてんのよ。
玄関にはハローキティのサンダルがあって、カーテンはマイメロなのよ。

“♪渋谷 六本木 そう思春期も早々に これにぞっこんに”

車はワゴンRなのよ。ウーハーが効きすぎなのよ。
例の骨くわえた犬のジャージを親子で着てんのよ。キッズサイズどこで売ってんのよ。
てか、ブランド名なんなのよ。

ガルフィのジャージ

ブランド名は「GALFY(ガルフィ)」らしい。
「ワン!だふる」とかだと思ってたよ。

で、散々ワルやったって遠い目をしながら武勇伝語った後、眠たくなるような正論を語りだすのよ。

“♪仲間たち親たちファンたちに 今日も感謝して進む荒れたオフロード”

――なんだろう、さっきからGRATEFUL DAYSZEEBRAのパートが聞こえてくる。

そうか、好きになれないわけだ。
現代語訳の般若心経に覚える馴染めなさは、ZEEBRAに覚える馴染めなさと同種なのだ。

友達になれねえ。共通の話題がねえ。
ああ帰りてえ。みたいなあの感じだ。

※自分、Dragon Ashは大好きです。

てか、ここの飲み代って割り勘なのかな。
先輩、今こそでかい声で言ってくれよ。

「心配すんな。大丈夫だ。」って。

意味がわからない。
般若心経って難しい。難しさの説明をするのが難しい。

般若心経は300文字に満たない経典だが、概念としては宇宙的な広さを持っている。
ってそれっぽく言ったが、要するにざっくりしすぎていて、色んな解釈ができてしまうのだ。

意訳しようと思えば、いくらでも意訳できるし、実際、多様性に富んだ解釈がなされて世に流布されている。

さっきの先輩の現代語訳も、そんなこと書いてあるかあ??って部分が少なからずある。
意訳というより、超訳といっていいだろう。

般若心経の言ってることって、とらえようによっては、苦しみと共に楽しみもなくしてアパシー状態になっちゃうというか、極端な話、生きる必要性を感じなくなるような精神状態を導きかねない、かなり危険なとこがある。

般若心経を訳す際、例外なくその目的は人生を充実させるため、教えをうまい具合に生き方に反映させるためであるから、危険要素の「色即是空」のあたりは、訳すほうもかなり気を使っている。

般若心経は、”こんな考え方をして生きなさい”というよりは、”あなたの生きている世界ってこういうもんですよ”みたいに、良し悪し関係なくただ菩薩の視点から見える世界を見えるがままに述べているところが強い。

そもそもが人生を充実させるための道具ではないのだ。

般若心経でアパシー化することは十分にありえる。
この経典を人生に活かしたいなら、自分の中で編集、料理する必要があるのだ。


余談だが、おれの知ってるある住職(寺男をやってたとこの住職ではない)は檀家さんに「般若心経って簡単に言うとどういうことですか?」と意味を聞かれたとき、こんな感じに答えていた。

「般若心経を目で追って唱えておりますな。その時、夕食のことや旦那のことや子供の受験のことは頭から消えていたはずです。ただ頭を真っ白にして一文字一文字を追っていく。そう、それがまさに”無”なのじゃ!

「なのじゃ!」はおれが勝手にセリフに加えただけだが、意味としては同様のことを言っていた。
檀家さんは狐に化かされたような、ポカンとした顔でうなづいていた。

傍で聞いていたおれもポカンとしていた。
なんかそれっぽいことを言われて、ごまかされただけではないか。

だが「なに言ってんだハゲ」とは言えない、妙な高尚さが言葉に宿っているのも確かだ。

果たして、これは吟味して深く考察する価値のある言葉なのか、それともハゲの一時しのぎの術なのか、判断がつきかねているうちに記憶が消えていた。

久々に思い出して、おれはハゲの一時しのぎと判断をくだした。
略してハゲしのぎだ。
略した理由は特にない。

でもよくよく考えてみると、これ以上ないほどシンプルに要約された仏教の心髄と呼ばれる経典を、さらに簡単にしてくれという要求がそもそも間違っている。

一般ピーポーが抱える愚かなるカルマ(業)が生んだ質問だ。
そのカルマに対して、とりあえず答えを出さなきゃというカルマが生んだ答え。

そう思うと、なかなかに奥深い一問一答である。


ちなみに般若心経に対するおれの見解だが、こんなふうに解釈していた。
解釈っていうか、こう利用していた。

  1. 今ここにいるおれ、無職で貯金0円。
  2. 宝くじで1,000万円を当てたのに、それをうっかり燃やしちゃった直後のおれ、無職で貯金0円。
  3. ヤーさんにドアを蹴られる2年間を耐え抜いた後、1,000万円の借金を完済した直後のおれ、無職で貯金0円。

すべて無職で貯金ゼロのおれだが、見える景色とテンションは圧倒的に違う。
そう、すべてはおれのとらえ方次第なのじゃ!

これは般若心経の全てではないし、心髄とも少しづれている。
経典の一部をクローズアップして、わかりやすく具体化しただけだ。

ただ般若心経の解釈の仕方、いや利用の仕方としては、間違ってはいないと思う。

そもそも般若心経の心髄って知る必要があるのだろうか。
あの経典、300文字足らずのくせに、大事なことをいくつも言いすぎなのだ。

人生をより良くするために般若心経を利用するなら、自分にあった一部分だけを拡大解釈するのも全然ありだと思う。


ただ般若心経の心髄を知るという意味では、上記の解釈だけでは足りない。

般若心経で言わんとしていることは、そもそも言葉では表現できないようなもの。
理屈ではなく概念。すごく感覚的なものである。

しかも、めっちゃアクロバティックな感覚だ。
痛い痛いって転げまわってる人に「それ実は痛くないよ錯覚錯覚」って言うくらいの。

たぶん般若心経を編んだ方も、理解した方も、もどかしくてしょうがないと思う。
かゆいところに手が届きそうで届かないもどかしさ。

かゆい繋がりで言えば、かゆいって感覚を知らない人に”かゆい”ってこういうことよって言葉で説明するのって、めっちゃ難しいじゃないですか。
般若心経って300文字でそれをやろうとしているんですよね。

透明の概念の周りの輪郭を300文字で埋めていって、ほら中にぼんやり形が見えるでしょって言っているというか。
あれだよ、あれ。みたいな感じ。

なんだろう、おれのこの説明もうまくしたいのにできない。
かゆいんだか痛いんだか紛らわしいし。

普段ならここまでグダり出すと、もう喋るのをやめて「おつかれーっす」って帰宅するのだが、今日は文章だからもうちょっと頑張ろう。


アクロバティックに現世を見つめる菩薩の視点

それをたっぷり説明してきた末、般若心経で言いたいことは結局これだけだ、みたいなくだりでラストに突入して、「ギャーテー ギャーテー……」が始まる。

あそこが一番意味がわからないんだ。

散々ワーワー言ってきて、結局あんたなにが言いたいん!とヒステリックな怒りさえ覚える意味のわからなさ。

ただこれ、意味がわかんないってのとはちょっと違う。
あのサビの個所はそもそも意味を持っていないんだ。

訳者たちも訳を放棄している節さえある。

あのサビは意味を解釈する必要はないのだ。
だって意味がないから。
わかろうとしなくていいのだ。

あれはロックで言えば、シャウトだ。
意味はないけど、意味がある。

ああ、もう自分の言葉なのに意味がわからない。頭がこんがらがってきた。
まあいい。まあいいんだ。

言葉で言うべきとこはとりあえず言えるだけ言ったから、後はこれさえ唱えりゃいいんだよ。
菩薩の超越的な感覚は、到底言葉では説明できない。
長ったらしく説明してきてなんだけど、最初っからそんなの知ってんだよ。
でもシャウトならできるだろ?

そう、心のシャウトだ。おたけびだ。プライマル・スクリームだ。
なんも考えず、ただ唱えりゃいいんだよ。

おや、なんかロックな現代語訳と似たようなゴールにたどり着いてしまった。
こんちくしょう。とにかく皆さん、ご唱和ください。

はい!!
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 !!!!
(ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー ボージソワカー ハンニャーシンギョー!!!!)

かわいい猫とウサギ

心配すんニャ。大丈夫ニャ。

▼シェアシタ貴方ヘ福ガ訪レマスヨウニ▼